LOGIN店内に入ると、IKEA独特の少しひんやりした空気。 天井のむき出しのダクトが白い照明を反射していて、順路の青い矢印に沿って進むたび、でっかいショールームが次々に現れる。 “北欧の人々はこんな優雅な暮らししてんのかよ”って思うようなディスプレイが並び、小物や観葉植物まで、きっちり計算されたように置かれていた。「うわー、こういうインテリア好きかも」「……ごちゃついててあんま好きじゃない」「俺はこういう部屋にしたいの!」「じゃあ最低、2LDKは無いとダメじゃん」 ……は? 俺が今住んでる家を、こういう風にしたいって言っただけじゃん。二部屋いらねーし。 マジで何の話してんのコイツは、と思いつつ、次の部屋に置かれたクッションに気を取られた。 そのまま二人でショールームをゆっくり歩いていたけれど、寝具コーナーに差し掛かった瞬間、空気が少し変わった。 急に佐伯の目つきが、ただのデートテンションから“本気の選定モード”にスイッチしたのがわかる。 今までの家具は適当に流し見してたのに、ベッドフレームの前だけはピタッと足を止め、値札とサイズ表を交互にガン見。耐久性も、素材も、スウェーデン語の説明書きをチェックしている。日本語のもあるのに。 あまりにも真剣だから、言わずにはいられなかった。「ねぇ、こっちに日本語の欄あるよ」「別にどっちも読めるからどうでもいい。先に目に入った方を見てるだけ」 ああ、そうですか。心の中で返事をして、尚もその場から動かない佐伯。 よほどこの黒のベッドフレームが気に入ったんだろうか。「ベッド買い換えるの?」 佐伯はちょっと間を置いて、奥に並ぶサイズの展示を見ながら答えた。「……まぁ、俺は今のままでもいいけど。どうせなら買い替えた方が良いだろ」 いや、お前のインテリアじゃん。別に俺関係ないんだけど。 不思議に思いつつも、その値段を見て俺は驚愕した。安いとは言えない。「ていうかさ、ベッドならIKEAじゃなくても売ってるじゃん? お値段以上のとことか、東京インテリアンとか……vnicoとかさ」 言うと、佐伯は展示されてるマットレスを軽く押して弾力を確かめながら答えた。「俺の身長だと、取り扱ってるサイズが限られるから。だから海外のブランドでいい」 うわ……出た……何気に高身長アピール。 けど、まぁ事実なん
いつも通りのバイトの後、俺は佐伯の家に泊まって、普段通りの“俺たち”を過ごした。 一緒にシャワーを浴びて、お互いの体温に触れながらちょっとだけ、ふざけ合って。 濡れた指先が腕や背中を滑るとくすぐったくて、つい笑ってしまう。 その流れで軽く触り合って、キスして、湯気でのぼせそうになったところでシャワーを止めた。 バスルームを出ると、佐伯のブカブカの部屋着を借りて、袖を何回折っても余るのがちょっと好きで。 寒いからその夜は小さめの鍋を一緒に作った。白菜が甘くて、湯気が白く立ちのぼって、窓ガラスがうっすら曇っていた。「今日の客、マジで雪崩だったな……腱鞘炎になるかと思った」「本当それ。レジ並んでるの見て、絶望したもん」 季節限定のビール缶を開けて乾杯して、そんな愚痴と笑い話をして。 食べ終わったら一緒に食器を洗って、ソファに座ってダラッとくつろいで。 気づけば佐伯が俺の手首を静かに掴んで、何も言わずベッドに連れていく。 そのまま、いつもよりほんの少しだけ甘めのエッチをした。「……南緒」「ん……?」「愛してる」「……うん、俺も……っ」 佐伯が『愛してる』なんて言うのは、付き合ってから初めてで。 機嫌がいいのか、気持ちが昂ぶっているのかなって思った。 キスの回数も、抱きしめられる時間も、いつもより長かった気がする。 それ以外は、本当に何もかも、いつも通り。 でも、翌朝起きた時。「いつもと違う」ことが起きた。*** 歯ブラシを咥えながら寝癖のままリビングに出ていくと、ソファに座ってスマホを片手に弄っていた佐伯が、じっと俺を見つめてきた。「ん、おはよー」「……はよ」 そのまま視線を投げ続け、じっと見つめる佐伯に俺は首を傾げた。「え、何? なんか変?」「……別に」 いや、何だよ。気になるから言えよ。 シャコシャコ、と歯ブラシを動かしながら俺が怪訝な顔をして見つめると、佐伯は立ち上がって言った。「今日、IKEA行くから」「は?」 一気に目が覚めた。 じゃあ、ってなに? どういう脈絡? IKEA? 突然、なんで? 思考にハテナが百個くらい浮かべていると、佐伯は眉を寄せた。「なに、嫌なの?」「IKEAでしょ? べつに良いけど……」 別に嫌じゃないし、家具とか雑貨見るのは好き。 歯ブラシを咥
この時間帯は本来休みのはずなのに、高橋くんと橋本くんがわざわざ店に顔を出してくれていて。 女子バイトの子たちも、花束を抱えて「おかえり小瀧くん!」と口々に言ってくれる。 その空気があまりにもあたたかくて、胸が詰まりそうになった。 ひと通り挨拶を終えると、俺と佐伯は店長と本部のお偉いさんに呼ばれて、奥の個室へと通された。「……小瀧くん。本当に、いいんだね?」 慎重な声色。俺は一度、深く息を吸ってから頷いた。「はい。その……確かに怖い思いはしましたけど。俺の対応の仕方も、今思えばもっとやりようがあったのかなって考えることもあって」 言葉を選びながら、ゆっくり続ける。「それに、このお店に嫌な噂が流れるのも嫌で。俺は……前みたいに、みんなで楽しく働きたいんです。できるだけ、日常に早く戻りたい」 言い切った瞬間、少しだけ心臓が強く脈打った。 隣を見ると、佐伯はまだ納得しきれない表情をしていた。 それでも口を挟まず、俺の意思を尊重してくれているのが分かる。 店としての対応や今後の方針を改めて話し合い、結果的に被害届は取り下げることになった。 但し――加害者の二人は、今回の件だけではなく、これまでの余罪を追及され、今も勾留されていると説明された。 外から見て狙いを定め、閉店後に店員の親切心に漬け込み、脅して暴力を振るい、防犯カメラを破壊して逃げる……というのを繰り返していたらしい、店長が、こぼしていた。 治療や入院にかかった分の費用は加害者に請求され、さらに店側からもお見舞金が支払われて――正直、十分すぎるほどの補償だった。 個室を出る時、少しだけ肩の力が抜けた。 橋本くんも、表向きは元気そうにしていたけれど。 あの出来事のあと、ひどく自分を責めて、短い期間とはいえ眠れなくなり、バイト中に突然泣き出してしまうこともあったと、人づてに聞いた。 でも、今も隣にちゃんと高橋がいる。 何も言わなくても、その距離感や視線のやり取りを見れば、支え合っているのが分かった。 だから、俺も佐伯も、あえて何も言わなかった。「……じゃあ、無理のない範囲で、今日からお願いね。重いものは佐伯くんにお願いして。それから――」 店長の言葉を遮るように、佐伯が静かに立ち上がった。「すみません、店長。俺から、ひとつお願いがあるんですけど」 手にし
夜は、同じベッドに並んで、キスを一回だけ。 横向きになると眩暈がするから、腕枕はしばらくお預けだった。 それだけが少し寂しかったけれど、不思議と「孤独」を感じることは一度もなかった。 佐伯が、いつもそばに居てくれたから。 でも眠った後、俺は、あの日と同じ夢を繰り返し見ることがあった。 掴まれる感触。怒鳴り声。 床に倒れた時の、身体が追いつかない衝撃。 断片的なのに、目が覚めた瞬間、心臓が喉まで跳ね上がって、息ができなくなる。「南緒」「――っ、やめて、離して! 触んないで!」「南緒、大丈夫だから。俺のこと見て、目ぇ合わせて」「こっち来ないで……っ」 どんなに疲れていても、真夜中でも、佐伯は必ず目を覚ました。 状況を聞こうとはしない。理由も探らない。 ただ、背中に手を置いて、一定のリズムで撫でてくれる。「夢だから。……ここは、俺の家だよ。今は、俺と南緒しか居ない。誰も入れない。だから大丈夫、安心して」 そう言いながら、何度も、何度も。 俺の呼吸が整うまで、離れずに抱きしめてくれた。 日によっては、お粥すら喉を通らない日もあった。 急に眩暈がして、ベッドから降りただけでしゃがみ込んでしまうこともある。 時間をかけて作ってくれたものを、一時間も経たずに吐いてしまった日もあった。 それでも佐伯は、嫌な顔ひとつしなかった。「……薬だけ、取ってくるから待ってて」 そう言って、額に手を当てて熱を確かめて、 俺の身体を最優先にしてくれた。 ――けど。 日中、ひとりで居るとインターフォンの音だけで、 どうしようもなくパニックを起こした日もあった。『ただいま、保険の営業でこちらのマンションを周らせて頂いているのですが――』 ベッドからそっと降りて、パネルのスピーカー越しに聞こえてきた低い男性の声が、店での出来事を甦らせた。 鍵を壊されて、ドアが開いたらどうしよう。 無理やり、押し入ってくるかもしれない。 距離を詰められて、腕を掴まれて、また――。 気づいたら、スマホを握りしめていた。 画面を開く手が震えて、文字を打つのにも時間がかかる。 《すみと》 《誰かきてこわい》 《はやく帰ってきて》 それだけ送るのに、何度も打ち直した。 午後の講義を全部休んで、佐伯は帰ってきてくれた。
無事に退院して、そのまま俺は佐伯の部屋に身を寄せることになった。 母さんと何度か話し合って決めたことで、俺の部屋はベッドも小さくて動線も悪いし、日中は佐伯が大学に通うことを考えると、何かあった時すぐに対応できる方がいい――そういう、現実的で優しい判断だった。 玄関を開けた瞬間、ほんの少しだけ懐かしい匂いがして、同時に胸の奥がふわっと温かくなる。 何度も来ていたはずなのに、「これからここで過ごす」という意識が加わるだけで、見える景色が変わるのが不思議だった。 部屋に案内されて、すぐに佐伯がしてくれたことに気づく。 ベッドの位置が変わっていて、動かなくても手が届く範囲に、水、薬、リモコン、スマホの充電器。 椅子の位置も、立ち上がらなくていいように微妙に寄せられている。 ……全部、俺のためだ。 考えるまでもなく伝わってきて、喉の奥が少しだけ熱くなる。 期間限定とはいえ、ちょっとした同棲みたいで。 体はまだ万全じゃないのに、心だけが先に浮き立ってしまって、隠しきれない嬉しさがじわじわと滲んだ。 だって、これから二週間。毎日、佐伯の隣にいられる。「飯は俺が作るからやんなくていい。掃除もするな。とにかく動くな。ここにある物以外で欲しいのがあったら、いつでもいいから俺を呼ぶこと。分かった?」 畳みかけるような指示は、口調こそ淡々としているのに、全部が心配から来ているのが分かる。 まるで主治医の先生みたいで、思わず小さく笑ってしまった。「はーい……」 返事をしながら顔を上げると、佐伯がベッドの横に腰を下ろす。 その瞬間、ふっと細く長い息を吐いた。 張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩んだみたいに。 でも、その瞳はまだ曇っていた。 後悔と、不安と、悲しさが、静かに居座っているのが分かってしまって――俺は自然と手を伸ばして、その手を握った。「……佐伯、色々してくれてありがとう」 その一言が、合図だったみたいだった。 佐伯は何も言わずに、俺の肩に顔を埋める。 体重がそっと預けられて、吐息が首元にかかる。 そして、押し殺すみたいな小さな声で、ぽつりと零した。「今はこんなことしか出来ないから」 弱音なんて、普段ほとんど見せない人なのに。 それだけで、どれほど追い詰められていたのかが伝わってきて、胸がぎゅ
佐伯の視線が、俺の手に落ちる。「佐伯が来てくれたから……橋本くんも、高橋も、なんとか無事だった。それだけで、十分だよ」 少し間を置いて、続けた。「……だから、自分で自分を殴るみたいに、責め続けるのは、もうやめて」 その瞬間、佐伯の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。 息を詰めたみたいに、目を伏せる。 それから、掴まれた袖の上に、そっと自分の手を重ねた。 その直後、控えめなノックの音がして、母さんが病室に戻ってきた。 佐伯は、床頭台の上に置かれた治療と退院計画の紙へ、そっと視線を落とす。「……叔母さん、退院準備の件って、もう南緒さんには――」 母さんは小さく頷いた。「ええ。さっきまで、ちょうどその話をしていて……」 そのやり取りの間、佐伯は俺の方を見なかった。 代わりに、静かに近づいて、俺の膝の上に小さな花束を置く。 淡い色合いの花。 派手ではないけれど、病室の白にやさしく映える。「……」 お見舞い、なんだろう。 けれど花瓶には、すでに昨日の花が活けてある。 ありがたさと同時に、申し訳なさが胸に溜まっていく。 言葉にしようか迷っているうちに、佐伯が母さんの方をまっすぐに見た。 背筋は自然に伸び、逃げも飾りもない。「俺が」 一拍置いて、はっきりと。「南緒さんの、身の回りの世話をするのは……ダメですか?」 空気が、少しだけ張り詰めた。 母さんが戸惑ったように視線を彷徨わせる。「佐伯くんのことは、もちろん信用しているけど……あなたも、まだ大学生でしょう? 息子の友達に、そこまでさせるなんて、申し訳なくて出来ないわ」 その言葉が終わる前に、佐伯は深く、静かに頭を下げた。「……すみません」 勢いのある動作ではない。 けれど、迷いのない、覚悟を伴った動きだった。 俺も母さんも言葉を失い、その姿から目を逸らせない。 頭を下げたまま、佐伯は続ける。「俺と南緒さんは、ただのバイト先の友人関係じゃありません」 そこでようやく、顔を上げた。「……恋人同士です。俺は南緒さんを、心の底から好きで、側に居たいんです。心配で……今は、片時も離れたくないんです」 その声は驚くほど静かだった。 けれど、逃げ場を一切残さない、真っ直ぐな言葉だった。「お願いします。南緒さんの看病を、俺にさせてください」 佐